語りの広場

エンド・オブ・ライフケア講座担当教員が語る

エンド・オブ・ライフケアとはどのようなケアを指すのか
―対象となる人は? いつからがケアの始まりか?

和泉 成子
和泉 成子
千葉大学大学院看護学研究科 エンド・オブ・ライフケア看護学講座 特任教授。「エンド・オブ・ライフケア、緩和ケア、看護倫理、看護の質評価」を大きな研究テーマとして、講座では医学的診断名だけにとらわれずに、生の終焉を迎える人々を全人的ケアの視点から理解し支援する看護を探求していきたいと考えている。
櫻井先生 私はずっと臨床と研究と病院での看護というところに焦点をあててきたせいか、死というものを『もしかしたらこの時こうしていたら…、もっと早く発見していたら助かったかもしれない。』とか『命が永らえたのかもしれない。』って考えてしまうことに凄くとらわれてきていました。今もまだ自分の中にそういうところが残っているのかなと思うのですけど、このエンド・オブ・ライフケア看護学でいろいろ長江先生、和泉先生とディスカッションしていく中で、和泉先生が仰られたように寿命として死を考えるとか、誰しもがいつかは亡くなるんだからと考えたときに、必ずしも死というのが医療者にとって敗北であったりネガティブな意味をもつものではなくて、自然なこととして捉えるというところで考えをもっと広い視野を持ってみると、必ずしも自責の念にとらわれなくても良いのでは、と…

長江先生 これまではいいケアができなかったとか? 医療者として自分を責めたりしてしまっていたということですか?

櫻井先生 はい。もうちょっとこの時にこうしていれば、というふうに自分を責めたり後悔したりすることが多いかと思うんですけど…

和泉先生 それは患者さんがってことですか? 医療者が?

櫻井先生 たとえば患者さんが亡くなった時に、医療者や近くにいた家族が、あの時こうしておけばもっと長く生きられたんじゃないかと後悔とか自分を責めるような気持ちに陥るということがあるのではないか、と自分自身の体験を踏まえて考えたことがありました。たとえばエンド・オブ・ライフケアというのはどういうケアなのか、ということを考えた時に、いつその患者さんが亡くなってもおかしくない状況で…ちょっと考えが散漫になってきてますけど…とにかくその人がこういうふうに生きたかったんだ、という方法で、患者さんはもちろん誰もが後悔しないように支える、患者さんが納得のいくような生き方ができたと誰もが思えるようなケアをしていくことが大切なんじゃないかなと常々考えています。その辺りは今も変わっていないところです。

長江先生 医療者も納得してそれで良かったんだと思えること?

櫻井先生 そうですね。医療者もそうなんだけど、特に家族、患者さんの近くにいた人たちも。

和泉先生 エンド・オブ・ライフケアとは直接関係ないかも知れないんですが、最近非常に医学が進歩した結果としてまるで死が医療によってコントロールできるかのような社会風潮があると私は思うんですね。医療者だけではなく、患者や家族も含めた社会全体がこうすれば良かったんじゃないか、こうすればもう少し長く生きられたんではないかと考えるってことは、ある意味、死を否定している社会なんだと思うんですね。

それは事実ではなくて医療はどんなに進歩しても病気を治すためのものであって、けっして不死身な体を作るためのものではないですので、その辺の勘違いというか医療に対する期待がものすごく大きくなってその結果としてまるで生死も医学が采配をふるうことができるかのような印象や妄想を医療者も社会全体も持っている事が問題なのかなと思って、だから医療者も一般市民の方々も、もっと謙虚になって自分は限りのある一つ命を生きているんだということを認識する、そういう考えに戻っていけるために看護師が直接患者さんとの対峙の中でできるケアとは少し違ってくるとは思うんですがもう少し社会的な啓発みたいなものに向けていければいいのかなと…そういうことも含めたエンド・オブ・ライフケアにしていく必要があるのではないかなと私は考えますね。

長江先生 同感ですね。地域社会に働きかけていくという点は、凄く大事だと思います。その辺は病気だけじゃなくて、老いていくそのものにも同じな感じがして、やっぱり年を取っていくこととか…やっぱりいずれは皆年を取って誰かの世話になって死んでいく、生まれた時だって、生まれた時から歩けるようになるまで世話になって…そして20歳まで世話になる訳ですよね。

それと同じように人間ってやっぱり老いも成長発達の一つとして誰かの世話になるんだけども、介護がなんでそんなにネガティブなのかと…大変だと負担感が強くてね、迷惑なことだとか…親に対して敬意の念を抱けなかったり、それを担う人が自分の生活を壊されたり、変えていかなきゃいけないことに非常にストレスを感じたり、確かに介護はこれも一つの喪失体験なのだろうとは思うのだけれども…。

でも、自分もいずれ年を取って死んでいくということを考えれば、共に生きてきた親なりなんなり、あるいは配偶者なり、そういう人の共に生きてきた時間と最後までの時をどう生きるかってところは必ずしも無関係ではないはずなんだけれど、それを全く第三者のように受け取っている部分がね、恐ろしいというか怖いなって思っていて、どうしてこんなにネガティブで受け入れられないんだろうと。自分自身も脅威ではあるんだけれども、その親の介護とか親の病気や家族のそういったことに関して、どういう風に向かい合えるかは自分も課題だと思うんだけれども。そういうところが社会全体が医療依存症とか、社会依存症というか国や政府や誰かがやってくれなきゃ困るとかね。責任転嫁してしまう体質があるのではないかと。

医療者も医療提供の在り方も自分たちが過信してはいけないし、医療依存症になっちゃいけないし、患者自身も医療にお任せじゃいけないし、自分でちゃんとどうしたいかを主張していくスタンスが必要だと思う。患者さん自身あるいは家族自身もどう受け止めていったらよいかを長い人生の中である程度イメージして考えていくことが大事で、そういうことを発信していくことがエンド・オブ・ライフケアという考え方の大事さではないかと思います。